備忘録

心地よい生き方を希求するHSS型HSPの日常、思うこと

自己暗示

※一部、宗教的、不謹慎な話題を含みますので、
苦手な方はお読みにならないようにお願いいたします。

 

 

 

 

 


「強さ」とは何だろうか。

 


それぞれで捉え方や目指す方向性が異なるものだけど、

私はよく「しなやかな強さ」という言葉を使う。

 


自分の軸を大切にし、強く自立して生活しつつも、思考の柔軟性を常に忘れないこと。


精神的におだやかであること。


女性的なやわらかさや品のよさというものを意識すること。


いわゆる、大和撫子的なイメージだ。

 


過酷な環境で前向きに自分自身を追い込む愉しさ、
いわゆる男性脳的な部分(この表現はいまいちと思っているけれど)を活性化させてものごとに打ち込むことと
女性らしいやわらかさを両立させること、


これが私が目指す基本姿勢である。

 


そして、私は精神力が人一倍あると言ってもらえることが多いものの
気力で奮い立たせているだけで、体は人並みか強くないほうだ。


限界を超える忙しさがしばらく続くと、落ち着いたあとにしばらく普通のリズムに戻れなくなるし
慢性的に胃が弱く、心身ともに過度なストレスがかかると(気持ち的には前向きなものの)
結構すぐに参ってしまう。


かといって、毎日定時に帰宅してのんびり過ごす生活を望んでもいないので
やりたいことをしていくために健康を犠牲にする覚悟はしていて。

私がするのは、「無理を重ねていってもどうにか動ける、最低限の健康を維持するため努力」である。

 

やはり、必要なことを取捨選択をしていくほかないなという考えが強くなってきながらも
さらに無理をするための行動についても考えている。

 

 

ひとつは、自身に強烈な自己暗示をかけて(自分はまだまだやれると、自分に思い込ませることで)
体を動かし続けること。


これは今でもやっていることで、私は得意なほうだ。

 

また、逆に、これを使って別の方向に導くこともできる。

例えば、今の私は望まないような『結婚して、専業主婦として子どもを産み育てる』という生き方も
それこそが私に必要なことだ、とそちらに強く強く意識を向ければ
あたかももともとそういう考えだったかのように幸せを感じることも可能だ。

と、思う。

 

私は、生活の中でいろいろなテーマについて考え悩むことが趣味であるけれど
それすらもやめてしまえる。

悩むことはつらく苦しいことでもあるから、諦めて解放されることで、幸せになれる部分もあるかもしれない。

ただ、自分が望むからこそこうあり続けるのと
あえてそれをしないことこそが私の「強さ」だと思っているからであって。


たまに生き方を見直したときにブレるときはあるけれど、

より自己洗脳を上塗りしていくことで強い「個」として存在すること
今の考えにいちばん近いのはこれだ。

 

 

二つ目、自分のホーム(守るべき存在、頼れる存在)を持つこと。


これもいい強さの持ち方だと思う。

少し前にこういう存在を望む時期が来ていたけれども、
ただ、私にはあまり不向きかもしれない。

ホームの存在が枷になったり、いずれ失ったりすることを恐れて初めから手にしないという選択肢をとる弱い人間だからこそ。
単純に、自分自身の内側と向き合うほうが向いているというのもある。

 

 

三つ目、宗教に傾倒すること。

これは、過去に某新興宗教に属していたことのある知人から(あまりオススメはしないと前置きがありつつ)話を聞いて
怖いもの見たさ半分で興味を持ってしまっている。

万能感や多幸感に満ち溢れる感覚や、人生の方向性を定めてもらえることによる心の安定など。


こちらもなるほどな、と思った。

単純に、宗教に加入することで自分はどう感じて行動するのか、という興味本位はもともとあった。
ハマる素質はあると思う。

あとは、強烈なカリスマに心酔してみたい気持ちもままあるかな。

今のところ行動に移す気はないけれど、興味が勝ってしまったらどうかわからない。

 

 


少し前から直属の部下ができ、いろいろと仕事を引き継いでいく中で
より強く次のステップを意識することが増えた。

自己洗脳を追加で三度塗りくらいしておいて、前向きに取り組んでいきたいと思う。

 

P.S.

自身のリセット癖について、これはあくまで自分の中の心の動きによるものであって
まったく相手起因ではないのだけど、
「リセットするとき、私は相手に飽きているのではなく、その人といるときの自分に飽きているのかもしれない」という考えに
最近ふと思い当たり、なんだかとても納得した。

最近の思考まとめ

さまざまなことが重なり、
ここ2週間ほどは体力の限界に挑むような、息つく暇もない慌ただしさだった。
今日は小休止。

しかしながら、単純に暖かい季節になってきたことも助けているのか
このタイミングで気持ちの面でいろいろと区切りがつき、安定してきたように思う。



私は、自分自身が10代の頃に身に着けたライフハック
大抵生涯を通して活用できるものだと考えている。

定期的に、これまで当たり前だと思っていた価値観を見つめ直すターンがやってくるのだけど
それはさておき。


比較的新しい日記にも書いていたような内容だけども、大きい部分では

・なるべく人や物に執着せず、身軽に生きること。
 (ミニマリストというほどではない)

・自分が心地よく感じる環境、人などを大切にすること。
 逆に、自分にとってマイナスの影響をもたらすものとは、社会的に許される範囲でできるだけ距離を置くこと。

・マイペースに、第三者からの評価に囚われない。
 すべて意思決定の基準は自分にあり、自らで選択し行動すること。
 (他人の意見を聞かないこととは違っていて、様々なものを柔軟に取り入れた上で
 最終的な決断は自らの意思で行い、すべては自己責任だということ。)

など。


三者の意見に左右されにくく、自分の信念を強く持って行動することができることや
マイペースに自分自身の心の向くことを突き詰めていく、
自分自身の内側に深く潜り込み、思考を深めていくことなど
要するに、内向的な資質は私の長所であって、
その部分を活かし、無理やり変えずに済むようにするために、自分を守るための武器が必要だな、と思う次第。




外向型の性質を持つ人とは根本的な考え方やものごとの感じ方が異なっていて、
半年ほど前から、仕事上重要なポジションで圧倒的外向型の方たちと同じ環境で働く機会ができて
そこから生じる葛藤が大きかったのだけど。

私生活であればまず距離を置いてしまうので、
そのようなタイプの人たちに合わせるべく煩悶するなんて、10代の頃以来の感覚だった。


こういった場面で、当たり障りなく、円滑なコミュニケーションをとることに抵抗さえなくなれば
もっとストレスフリーな人生を送れるのだろうな、と。

外向型人間と無理に仲良くなろうとするのではなく、いかに負担なく接することができるか、
そのための行動を考える。

また、相手に寄り添った仕事をするのは私の得意分野だと自負しているので
高いコミュニケーション力が身につけば、よりよいパフォーマンスを発揮できると思っている。



最終的には、じわじわと探りを入れつつ『こういうキャラ』としてポジションを徐々に確立していく、というのが
異なる性質を持つ人たちと人間関係を構築する上での私の基本戦法で、
現在もそうして居場所を作ることはできたんですけどね。

自身の行動の障壁になること、負担になることとはオサラバしていきたいから。




さて、少し話はそれましたが。

コミュニケーションにおいて、
自分の内向性の特にだめな点は『自己開示が下手』な点だと感じる。


そもそも自分の日常にあまり興味がないので
身近なエピソードを面白おかしく話すことが下手なのだけど、
それは意識的にネタを収集することと、テクニック次第でどうにかなることと思う。


でも、根本的には自分のことを知ってほしいという感覚が薄く、
私という人間の核心に触れるような話題については、
それ以上に『私はあなたを攻撃しないから、あなたも私を攻撃しないで』という防衛本能が働いてしまう。


個人的に、自身の思想の根深い部分に『自分は自分、他人は他人』という考えがあって
それゆえに、第三者の意見を自分基準で否定するようなことはないほうだと思っているのだけど、
自らのと違う考えを攻撃する人も多いため、
『私』の領域を侵されることがおそらく過剰に怖いんですね。

それに対して好意的なレスポンスも期待していないけど、否定されてしまったら悲しい。
そういう感覚。


だからこそ、ここのような匿名の場で明確に誰かとつながっているわけでもない、という間柄が
どこまでも心地いいわけです。

ツイッター等のSNSも高校生くらいの頃はハマった時期があるものの、
そういう場でもやはり人間関係が構築されていくから、同じ環境でずっといるのがなんとなく居苦しくなり
突然転生するタイプ。

そういう屈折した感情を抱いている。

(リセット癖は治らないと諦めていて、どうせ新しい人間関係ができてもまたそうしてしまうんだろうな、と感じるので
相手を傷つけたくないからこそ余計に始められないという、こじらせ具合ですね。)




まあ、それはさておき。

自身のマイナスなことも書き連ねましたが、このような自分を肯定して愛せる傾向が強くなってきたので
2021年はもっと前向きに突き進めそうな気がします。
仕事で新しい取り組みも着々と進めているしね。


近頃は、比較的自分の自己完結思考を顧みるターンだったけれども
変に頭が固くなることは避けつつも、ひとりで強く生きていくことを突き詰めていこう、という気分。

月並みだけど、最終的に、自分を肯定してあげられるのは自分自身しかいないですからね。
自分が好きと言える自分のために
爪を研いでたくましく生きていきたいと思う。



P.S.
最近、ひろゆき氏の『自分は自分、バカはバカ』を読んだのだけど
自分のスタンスに馴染むものが多く、こういう生き方でもいいんだなと肯定するための補強になった。
この手の本で、読了後すぐに2週目に入ったものは初めてかもしれない。

あと、今年、とうとう花粉症デビューしてしまった気がする。切ない。

"優しさ"とはなにか。

「優しい人」とは、どういう人のことを表す言葉なのか。

自分自身はどうありたいのか。

さらに、それと関連して興味関心について、現在の私の考えを記してみます。

 


日常生活で関わる人たちからは、
私は、ありがたいことに、優しい、おだやか、というイメージを持ってもらえることが多い。


その表面的な「優しさ」は負の感情を表に出さないからだと思うけれど、
それは、私がは「興味関心が自分自身に向く」タイプだからこそだと理解している。

他人に興味を持ちにくいからこそ、他人の行動がいい意味で気にならず、悪い印象を抱くこともない、ということ。

常識や偏見に変にとらわれることもないので、
そうしてフラットな視点で相手を見て、関わることができると。

(このあたりは、後ほどいろいろ話すとします。)

 

ただ、これはあくまでも「優しそうに見える人」というだけであって。


次には、こうすることが相手のためになる、と ” 自分 ” が感じた行動をとることも
一種の「優しさ」のかたちですね。

しかしながら、それは受け取り側が押しつけがましい、ズレている、と感じた時点で
「自己満足」に変わってしまうリスクがある。


そう見えるタイプの人には
自分本位で考えを押し付けようとしている人と、本当によかれと思って行動している(が裏目に出ている)人とに
分かれるかと思いますが、私は後者の人がわりかし好きです。


本当に大切に思う人に対してであれば
時にはマイナスな意見でもきちんと伝えることが必要だと思うけれど、
基本的には、自分自身が言うほうではないので
「叱ってくれる優しさ」を持っている人って魅力的だな、と強く感じるので。

モラハラ的なそれとの違いは判断できている・・・つもり。

 

そして、最終的には、自分の取った行動で受け取り側に「この人って優しいな」と感じてもらえること。

自分の優しさをそのまま正しい意味で受け取ってもらえること、というのかな。

それが理想的な「優しい人」の在り方だな、と思いますね。


思ってもいないお世辞を言うだとか、無理やり相手に合わせるような行動は違うけれど
可能な範囲で、相手が望んでいる角度からアプローチすること。

相手をよく見極めて(わかった気になるのは違うというのは重々理解しつつ)、
できるだけ個々に寄り添った言葉や行動を取れるようになりたいものです。


自分がこうしたいと思うことでも、やはり相手に求められていないと感じたら踏み込めないし
私と関わることで相手にメリットはあるのか、ということを考え始めたら
気が付けば、プライベートで一対一の人間関係を築くことがめちゃくちゃ下手になってしまった。

唯一、仕事上の関わりでは多少なりともプラスの影響を与えられる自信があるので
いくらか積極的に向かっていけるかな。


ただ、どんな行動であれ、私は「自分のためにしてくれた」気持ちが心の底から嬉しいので
この人のためにこれがしたい!という気持ち主導で行動できる人を
そういう人こそが本当に優しいんじゃないか、と感じたりもしますね。

人それぞれ。

 

 

さて、先に話題に挙げた「他人に興味を持ちにくい」や
自分の興味関心についての話ですが。


自分自身という ” 個 ” の生き方、信念や充足感とか
そういったものを日々考える。

誰しも、自分自身が人生の主人公に違いないわけで、そこに興味関心が強いのは当然のことで。


ただ、自分自身の幸せを自らで創り出そうという傾向が強いか、
それとも、それを第三者に求めようとするか、
という点で分かれてくるのかな。

 

前者について、好意的にとらえれば「自立している」になるのだと思う。

とはいえ、どこまでも自分ひとりの世界に深く沈み込んでしまうこともできるし
非常に自己完結的な考えに至ったりもする。

その行為は、とても不健全なようにも感じる。

生きやすく、生きづらい。


自分にないものを持っているからか、ストレートに他人に喜怒哀楽をぶつけられる人のほうが
魅力的というか、人間らしいなと感じたりもしますね。
喜と楽は、自分でも素直に表現するように意識してはいるけども。

 


ただ、興味がわかないものに対してでも
いろいろな角度から見つめることで、自分なりに響くポイントを見つけることができるな、ということを
最近あらためて感じることができたのはひとつ成長。

 

例えば、私は「旅行」というもの自体に興味はわかない。


その土地の美しい名所を見る、おいしいものを食べる、現地の人と触れ合う、
それらの行為そのものにはさほど魅力を感じない。

旅行にかかる労力やお金を考慮したときに、それに見合ったメリットを感じられないのかな。


自分が一緒にいて心地いい相手と行く旅行なら楽しいけれど、
それは好きな相手と過ごす時間をよりよいものにするための調味料としての役割だし
他人ありきの気持ちである。

ただ、「日本一周」というミッションを掲げてみたら
ゲーム感覚で楽しく旅に出ることができるかもしれないな、と感じたわけです。

 

また、私は「料理を作る」ことそのものは好きだけれども
自分自身はあまり食に関心がない。

だから、おいしく食べてくれる相手がいるのであれば
「作りたい」気持ちが動かされるものの、それも他人ありきであり。

自分主導で考えると、せめてSNS等に作った料理を上げることで第三者に見てもらえる機会があれば
少しはやる気が出るかもしれないな、と思ってみたりとか。


そんな具合。

けっきょく、何事もそういうことですよね、と感じた今日このごろ。

ただ、この ” 究極的になんでも自分ひとりで完結させようとする ” 考え方は
自分でもどうかと思いつつ。


まあ、そんな不器用さも含めて、私。

だから私は友だちがいない

私は友だちが少ない。

 

というか、現在いないと言っていい。

 

 

そもそもひとりで過ごす時間が最高に心休まるときであったり、人間関係にルーズであったりという

根本的に友だちを欲してはいないという事実はさておき、

どちらかというと「誰とでも当たり障りのない関係を築く」、ライトな知り合いを増やすために不足している要素を改めて見直すため

自分に友だちができない理由をあえて挙げてみます。

 

わりと、友だちがいない人あるあるかと思う。

 

 

もしも本当に友だちがほしく社交的になりたいと願うのであれば、

まず、こうして理屈を捏ねくり回すことからやめたほうがいいですね。

 

考えすぎて変に頭でっかちになったり、身動きが取れなくなったりすることこそが最もコミュ強(リア充)に遠い行動だと思うので。

考えるよりもまず行動!

 

 

 

 

さて。

 

理由はざっくり、キリ悪く4つ。

 

 

理由①「他人に興味がない」

 

はい、致命的かつあるあるなやつですね。

 

思考や行動が自己完結的。

自分なりのこだわりや価値観で出来上がってしまっているので、

好きなものはとても好きな反面、琴線に触れないものに全然興味を持てない。

 

だからといって、自分の好みを押し付けることもまったくなければ他人の好みを否定することもない。

解ってもらえることを望まない、期待しない。

同じくらい信念のある人の話を聞く行為は、めちゃくちゃ興味深くて好きですが。

 

どうして解ってくれないの、と相手に不満を持つくらいのほうが、いっそ人として健全なのではないかと思ってしまう。

 

 

そんなこんなで、私は当たり障りのない会話のネタ収集が苦手ですね。

学ぶ努力はすれど、自分が気にならないことは本当に記憶に留まらない(最近少しずつ、自分と関連付けて頭に叩き込む方法がわかってきた)。

 

コミュニケーションの基本は相手に興味を持つことから、って言うじゃないですか。

可もなく不可もなく同調したり流したり、興味がある風を装ったリアクションをとることはできるけれども。話を広げられないのですよ。

興味がないがゆえに。

 

特に、芸能人や知人のゴシップに興味関心が向かないので私のようなタイプは良くも悪くもドライな印象を持たれがちですかね

そういった話題を好きな人が、それだけ他人に興味関心を向けることができることそのものは正直羨ましく思う。

 

 

 

理由②「自己開示が下手」

 

自分のディープな趣味嗜好は信頼できる相手にしか明かしたくないし、

かといって、先述のように当たり障りのないネタは興味が持てない、というどうしようもなさ。

 

 

開示が下手くそだし、できる部分がないとも言える。

 

 

そう、私は他人に言いやすい趣味がない。

 

今は仕事に打ち込んで自分を高めていくことが一番の趣味だけども、それは周りに理解されがたい。

 

オタク趣味があり同人活動していた過去もあるものの、微妙にマイナーなジャンルなのと、

自分の中で壁打ちが当たり前になっているため、もはやオタクトークでの第三者との盛り上がり方を忘れてしまった

 

 

一般的に共感を得られやすい趣味でいうと、

食、旅行、映画鑑賞、娯楽としてのスポーツにあまり関心を持てないのがつらい。

 

一番の趣味である仕事を中心として、

休みの日は好きなだけ寝る、ゆっくり美容や健康面で自分を労る、家事をする、といった時間が十分癒しになって満足なのだと。

 

まあ、相手との関係性をどうしていきたいかによりますが、

先に弱さを曝け出してしまう方面での自己開示は比較的よく使う手段でもあります。

 

仕事が好きなことを逆手にとって社畜キャラでいってみたり

趣味がないので逆に新しいことにハマりたいんです、なにかおすすめありますか〜、と相手に振ってしまうとか。

人見知りだと先に公言してしまうとかね。

 

立場上なめられてはいけない相手に対してでなければ、これはそこそこ有効。

とはいえ、わかりやすいキャラ付けやアピールポイントがある=相手にも会話のとっかかりを与えることになるので、

それがない私は申し訳ないなと常々思うのでした。

 

 

 

理由③「他人に頼らなくても結構一人で生きていける」

 

卵が先か鶏が先か問題でもありますが、

結構なんでもひとりでやれてしまうし、満喫できてしまう。

それゆえに、他人とのつながりを重視していない。

もちろん人間はひとりで生きてはいけないけれども、ひとりで十分と感じる範囲が広いほうなのだと思います。

 

 

 

理由④「連絡不精、逃避癖持ち」

 

文字や電話での雑談が本当に苦手。

対面で話す以外のコミュニケーションはとにかく億劫。

 

事務連絡は即レスしますが、目的がはっきりしていないやりとりが苦手というんでしょうか。

返信を考える行為に変に悩み、時間を使いすぎるのもある。

 

そして、挙げ句の果てには面倒くさくなるとすぐに切ってしまう。

これは本当によくなかったと、過去親しくしてもらっていた友人たちに対していたく反省しております。

突然失踪して申し訳ございませんでした。

 

自分のこのようなルーズさをよく知っているからこそ、新たに関わってくれる人に迷惑をかけないためにも一線を置こうと思う傾向もあるのは間違いない。

 

 

 

 

そんな感じでしょうか。

 

根本的に内向型人間であることは十分に受け入れていて、さらに人間関係に左右されないことで自由でストレスフリーな生活を送れているので

友だちがいないことは効率的だ。また、自分の性格的に向いているのだろうと思っています。

 

 

人としてどうなのか、と、本当に困ったときに頼れる人がいないという点だけが問題かな。

あと、たまに寂しくなるときはもちろんあるけれど、ひとりで楽しく過ごしていれば結構すぐ忘れる。

 

まあ、私はこれで良い。

 

 

最初の「当たり障りのない会話スキルをつける」という目標を果たすためには、

やはり話題を豊富に持っておくことや鉄板ネタを身につけることでしょうか。

会話のキャッチボールをする基礎力はあるので、あとはネタ探しと場数を踏むことか。

 

 

ここはまだまだ課題があるので、自分なりの答えが見つかったらまた記していきたいと思います。

はじめまして。

はじめまして。sと申します。


仕事と自己実現に全精力を注いで生きています。

 

・趣味なし(ある意味上記が趣味ですが、他人に言えるような娯楽的な趣味がない)
・ブス、女としての自信なし
・友達なし
・コミュ障、HSP気質
・独身(既婚男性と不倫関係)

 

自己肯定感が地に落ちた卑屈ブス25歳が這い上がりたいための取り組みや日常、思考の整理などなど

そのようなことを綴っていきます。

 

 

つい最近までは、某出会い系サイトにて 出会いを求める気持ち : 思考の整理や備忘録 = 3:7 くらいの割合で
同じような日記を書いていたのですが、
諸々経て、ネットでの出会いというものにある程度見切りをつけたことをきっかけに
後者に振り切り、新たにブログを開設してみた次第です。

 


泥臭く、情けない部分も遠慮なく晒していきたいと思いますので、
同じような方に共感していただけたり、エンタメとして楽しんでいただけたら幸いです。

 

どうぞよろしくお願いいたします。